発表要旨


須藤孝也(一橋大学)「キルケゴール思想における倫理とキリスト教の相補性について」

理念の達成を目的としてもつ倫理であるが、キルケゴールの理解によれば、 倫理がこの目標を達成することはない。この倫理的な理念の達成の座礁という 状況は、宗教的に理解される。倫理的人間は内在的に人間の力を信頼していた が、倫理が座礁してしまった後、人間は自らの無力を承認し、神という超越的 な存在を受け入れることが要請される。人間は、当初宗教的次元を察知するこ となく倫理の達成を目論むが、倫理的状況を成立させているのは神だというこ とが、倫理の破綻によって露呈する。倫理が見出した理念を与える神との関係 に入ることによって、はじめて理念は達成される。

確かにキルケゴール思想において、倫理的領域は宗教的領域の獲得により、第 二位へと下降するが、しかし破棄されるのではない。宗教は、その反復の運動 によって、克服した前段階を受け取り直す。すなわち、宗教的段階への到達を 果した人間は、到達以後に、美的領域や倫理的領域へと舞い戻り、様々な領域 の間での運動を行う。倫理は、現実的他者関係において働き続ける。キルケゴー ルの信仰理解によれば、他者との倫理的関係を欠く信仰というものはありえな いのであり、信仰は不断に倫理をも行うのである。この宗教が倫理を克服する という事態を逆から見れば、宗教は倫理を克服するものであるが、その克服が 成り立つためにも、倫理を必要とするのである。キルケゴール思想において、 倫理と宗教は互いに必要とし合う関係にあり、どちらかを欠いては、そのどち らも存在しえないものとして提示されている。

倫理と宗教についてのキルケゴールの理解は、近代的な同一性を基調とした合 理性が構築した普遍主義的倫理が破綻しつつある現代において、生の選択肢の 一つを提供しうるものであろう。また倫理性を欠いた宗教的な運動が流行する 現代において、倫理性を把持した宗教を確保する論理を提示している点で、そ の功績は大きい。


本田誠也(フォーダム大学)「隣人に対する態度−プラトン、キュルケゴールにおける幸福主義の比較−」

本論では、プラトンとキュルケゴールの幸福主義に見られる差異を 『国家』篇、『愛の業』という両思想家の代表的著作に即して考察す る。この考察の主眼は、魂の永遠性の獲得という哲学・信仰に共通のも のと見られるテロスが、時間性−殊に時間性(現象)の内にある隣人− に対してもつ関係の、本質的な差異を考察することである。この考察 は、それぞれの著作の主題である「正義」と「愛」という概念をめぐっ てなされる。

同じように幸福主義的傾向をもつ両者の思想は、その真理観において よりもむしろ「正義」「愛」というそれぞれの主題に基づいて打ち出さ れる倫理思想において本質的に異なる。この差異は、時間性に対する愛 /エロスの主体の態度において本質的に現れてくる。すなわちプラトン が『国家』において叙述している、「正義」として成就される哲学者の イデアへの上昇が、最終的に永遠の秩序(善が個人および国家にもたら す調和)を時間性のうちに、すなわち他者の魂および共同体の内に打ち 立てることを目指すのに対して、『愛の業』における信仰者は、その自 己否定のうちに永遠性の秩序のもとで時間性を獲得(享受)することに 究極のテロスをもつ。この相異なるテロスのもとで、哲学者のエロスが 隣人の個人性を非本質的なものと見、そこに潜在する永遠性を目指して 働くのに対して、信仰者の愛はそれぞれの隣人の個人性を永遠なるもの の具現として享受する。前者が内面性と共同体における倫理を通約可能 なものとして見、政治的実践を鼓舞するのに対して、後者は通約不可能 性にその基礎をもち、政治的文脈を度外視する。プラトンの正義が自他 の魂の自由に根拠をもちながら、自己の他者に対する能動的態度を奨励 するのに対し、キュルケゴールの信仰は自他の内面性の(神に起源す る)自由に根拠をもちながら、主体の隣人に対する受動性、非相称性を 強調する。

細羽嘉子(広島大学)「和辻哲郎のキェルケゴール論」

今日、キェルケゴールの著作は様々な言語に翻訳され、広くその名は知られているが、 このキェルケゴールの名が日本で知られるようになったのは明治以降のことである。そし て、和辻哲郎が日本における最初のキェルケゴール研究書となる『ゼエレン・キエルケゴ オル』を刊行したのは大正4(1915)年のことであった。

『ゼエレン・キエルケゴオル』は、その後約三十年余りを経て、昭和22(1947)年に筑摩 書房から改訂新版として刊行される。この改訂新版を初版と比べてみると、大幅に叙述が 削られているのに気づく。改訂新版序の中で、和辻はその改訂理由を次のように語ってい る。「意義の少ない部分は、どれほど労力がかかっていても、思い切って切り捨てなくて はいけない」という初版への夏目漱石の批評を受けて、和辻は改訂する際に「最初の意図 や解釈を明らかに」するために、「半ば近くは抹殺し、一二割ほどは書き加え」る作業を 行った。つまり、和辻は自身のいわんとすることを明瞭に表現するために、言葉を重ねる のではなく切り捨てる方法を選んだのである。

それならば、両者を比較する際に、改訂新版の中で切り捨てられたものよりも、あえて そこに書き加えられた言葉に注目することは、和辻のキェルケゴール理解を明らかにする 手がかりになるのではないだろうか。この視点から、本論では、改訂新版に新たに書き加 えられたいくつかの箇所のうち、特に改訂新版後篇3「いかに生くべきかの問題(倫理学 )」の箇所を取りあげることにする。この章題は、初版では「如何に生くべきかの問題」 とのみ表記されていた。なぜ和辻は改訂新版で倫理学という言葉を付け加えたのであろう か。この問いを念頭に置きつつ、その箇所の内容を整理し、和辻がキェルケゴールの思想 をいかに捉えようとしていたのか考察を進めることにする。


伊藤潔志(東北大学)「キェルケゴールにおける絶望の教育学的意義」

実存哲学を教育学に導入する試みは、K・ヤスパースやO・F・ボルノウなどによって なされている。そのさい、実存的教育学は、個人の主体性の重視を強調しつつ、「危機」に 代表される人間形成における否定的契機に積極的意義を見出し、「覚醒」など非連続的な人 間形成観を提示した。

しかし、実存的教育学は、次第にその影響力を低下させていった。その原因は、二つあ るように思われる。第一に、「実存主義」は構造主義に代表されるポスト・モダン思想に乗 り越えられたのだとする思想史的事情が考えられる。また第二に、人間形成における否定 的契機は意図的教育においては実践が困難ではないかという方法論的要因が考えられる。

周知のようにキェルケゴールは実存哲学の源流であり、実存的教育学の思想的原型はキ ェルケゴールにおいて見出せる。実存的教育学が提示した人間形成観を再考するならば、 キェルケゴールの思想まで遡る必要があろう。

その中でも特に絶望に注目するのは、キェルケゴールにおける絶望が自己生成における 否定的契機となっているからである。そして、絶望と信仰との関係にまで考察を進め、絶 望には信仰が内在していることを明らかにしたい。一般に、絶望と信仰とは、正反対の意 味として理解されるが、キェルケゴールの問題は徹頭徹尾信仰の問題であり、信仰を念頭 におかない絶望は考えられないからである。

本発表では、絶望という否定的なものの中にも信仰という積極的なものが内在している ことを明らかにすることを通して、積極的な教育目的を前提としつつ子どもの主体性を重 視するような教育の在り方を提示したい。


大利裕子(京都大学)「キェルケゴールとシェリング −自由と悪をめぐって−」

キェルケゴールが1841年から翌年にかけてベルリンでシェリングの講義を聴講したこ とはよく知られている。しかし、キェルケゴールは最終的には講義に失望して帰郷し、 またその後著作の中でもシェリングについて必ずしも多く言及しているとは言えないた め、両者の関係は従来あまり主題的に考察されてこなかったように思われる。しかしな がら果たして両者の関係は、キェルケゴールのシェリングに対する失望ということに尽 きるのか、再考を要すると考えられる。キェルケゴールの行ったシェリングに関する言 及の中に、1809年の『自由論』をめぐるものがいくつかある。この著作は人間的自由と 悪の発生を主題として論じており、『不安の概念』と同じ問題を扱っていると言える。 本発表ではキェルケゴールとシェリングの関係を考える1つの手掛かりとして、この2 つの著作に即して自由と悪の捉え方を比較し、両者の思惟の特質を明確にしたい。

考察は以下の手順で行う。まず、『自由論』の検討を通して自由と悪がシェリングに おいていかなる問題意識から扱われているかを確認し、次に『不安の概念』における自 由と悪の捉え方と比較する。最後にキェルケゴールのシェリングに対する評価について 検討したい。


田中一馬(島根大学)「宗教をめぐる評価の中で倫理が占める位置について」

キェルケゴールが、「神からの啓示を得た」と主張する牧師アドルフ・アドラー の言動を詳細に分析し、批判的に検討する著作を出版しようとしたことは、知ら れた事実である。出版されなかった草稿の中でキェルケゴールは、いくつかの論 点をめぐってアドラーを批判するのだけれど、その中に次のような議論が散見さ れる。「アドラーが啓示を得たのであるなら、彼はその事実を固く保持し、自分 の体験を適切な概念によって理解している必要がある。しかし、アドラーはその ことに必要な概念を備えておらず、したがって自分自身を理解していない。」

仮にアドラーが問題の件に関して自分自身を理解していない可能性があるとして、 そのことはどのような意味で批判されるのだろうか。そこには、「宗教的なもの にかかわっている人物は、倫理的である必要がある」という根拠がひそんでいる ように思われる。この場合「倫理的である」とは、適切な概念によって理解した 限りでの自分自身の可能性を現実化することに関心を向け、努めることに他なら ない。そしてそれはたとえば『後書』では、キリスト教に限らずあらゆる宗教性 が備えているべき要素であるとされていたものである。したがって、「神からの 啓示を得た」はずの自分自身をまさにその点において理解し損なっているアドラー については、そうである限り、「神からの啓示を得た」と見なすことができない のである。

草稿では、アドラーが「神からの啓示を得た」ことを議論上認めた上で、彼の一 連の態度が著作家として倫理的に一貫していないことを批判し、同時にそれが時 代の欠陥を象徴していると指摘する議論が主調となっており、先に挙げた論点は 目立って論じられていない。しかし、先に挙げた論点に関する議論がキェルケゴー ルの念頭にあり、その議論が倫理に関する彼の見解に照らして相応の説得力を持 つと言うことはできるであろう。


EGUCHI Satoshi <eguchi@kyoto-wu.ac.jp>
Last modified: Fri Nov 15 22:16:22 JST 2002